1754354 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

藤の屋文具店

藤の屋文具店

第八章 成層圏の亜理紗




【神へ】

第八章

成層圏の亜理沙

爆発音がした。

亜理沙は研究室のあるブロックを閉鎖すると、管制室のコンピュ
ーターから情報を漁った。研究室の端末は表示こそ不自由だが、す
べてに優先して地上からでもデータを取り込める。
映像を片端からスィープして、第一ポートにいるニコルを見つけ
た。シャトルを奪うつもりだ。カメラの視界にスタッフが映った、
ニコルを取り押さえようとつかみかかる。
しかし、スタッフは一瞬で倒された。スタンガン? なにか、強
力なショックを与えられて絶命している。科学実験にたずさわるス
タッフは、たいした戦闘訓練を受けていない。

「第一ポートを閉鎖します。スタッフは退去せよ」

ポートをロックする。シャトルを奪われたらおしまいだ。しかし
、このままではニコルを倒せない。ポート内の酸素がなくなるまで
は待っていられない。どうしたものかと思案する亜理沙の脳裏に、
1994年の民間シャトルの死亡事故が浮かんだ。
しばしためらった後、亜理沙はポートのサーキュレーターをカッ
トした。

ニコルは、ポートの中をゆっくりと歩いていた。そして、閉ざさ
れたドアの前で立ち止まってやがて、異常に気がついた。
息苦しい、なぜだ、空気が漏れているのか? 彼はその場にしゃ
がみ込んだ。しかし、息苦しさは少しも解消されず、ますます苦し
くなってきた。荒く息をするのだが、ほんの少し楽になるだけで進
展はなかった。

・・・だめだ、こんなところで倒れてはいけない・・・俺には・
・・堕落した人類を救済するという使命があるのだ・・・・神の使
命を妨げようというこのプロジェクトを阻止しなければ、人類に真
の救済はやってこない・・・・・選ばれたひとびとが・・・千年王
国を築くには・・・・・汚れきった愚民の衆は・・・淘汰・・され
ねば・・なら・・ない・の・だ・・・

うすれゆく意識の中で、ニコルは幻を見た。12枚の翼を持つ神
々しい主が、自分の手を取って王国の宮殿へと誘っていく。地上で
は真の神を信じられない愚鈍な大衆どもが、地獄の業火に焼かれて
苦しんでいる。そうだ、お前たちにも機会は与えられていたのだ。
我々の語る真理に耳を貸さなかったおまえたちが悪いのだ・・・幸
せそうな笑みを浮かべ、ニコルは動かなくなった。

センサーがニコルの死を告げると、亜理沙はファンの動力を入れ
た。無重量状態では対流が起こらない。絶えずファンで空気をかき
回していないと、自分の吐いた炭酸ガスが周囲を覆って呼吸を困難
にしてしまう。宇宙に慣れていないニコルは、ほんの1フィート向
こうにある酸素を手に入れるすべを知らず、絶命したのである。宇
宙は、本来ひとの住むところではないのだ・・・。

「クライトン、アトランティスに乗り込んで発進準備を・・」
「アイサー、博士、おみごとでした」
「やめて! わたしは・・・ひとを殺したのよ・・・」

亜理沙は、細菌のコンテナと、科学衛星アンドロメダの点検を始
めた。人類50億の命がかかっている。

「・・・・・博士、アトランティスはスタンバイしてます」
「・・たいへん・・・・アンドロメダの軌道がずれてる」
「さっきの爆発ですか?」
「たぶんそうだわ、スタッフを回収してください。このままでは落
下してしまう。コンテナを登載したら、わたくしも参ります」
「アイサー、生存者は8名です。今のうちにコンテナを登載しま
しょう」
「気をつけてね、破損するともう余裕がないから・・」
「アイサー!」

スタッフたちがアトランティスへ向かってボーディングブリッジ
を歩くのが確認された。クライトンはマニピュレーターで一番近く
のナンバー6コンテナを引き寄せる。
カーゴベイのフックがかちりとロックした瞬間、「それ」は起こ
った。

何が起こったのか、誰にもわからなかった。鈍い衝撃とともに映
像が乱れた。レシーバーから誰かの悲鳴のようなものが聞こえたよ
うな気もした。

亜理沙は、真っ白になったモニターを別のカメラに切り替えて初
めて、事態の深刻さを悟った。

第一ポートが消失している・・・ボーディングブリッジの途中か
ら、引きちぎられたように何もかも無くなっていた。アトランティ
スは・・・アトランティスも無かった。コンテナも4個しか無い。
そこらじゅうのモニターをチェックして、亜理沙は異様なものを
見つけた。第一ポートの付け根に張り付いたそれを、ズームで拡大
する。
地球光に照らされて暗赤色に輝くそれは、破裂して裏がえしにな
ったスタッフたちの肉体だった。

コンソールのランプが点滅して、緊急通信回路が開いた。

「地上よりアンドロメダへ、何があった?」
「あ・・博士・・・それが・・・」
「レーダーに、変な反応があったが・・」
「・・・・アトランティスが・・・・消失しました・・・」
「・・・・・・・・・・!」
「報告します・・・狂信者の妨害工作でスタッフは全員死亡・・シ
ャトルは消失・・・・アンドロメダは軌道を落下中、コンテナの半
数は周回軌道を迷走中・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・・・もう、もうだめです・・」
「あきらめるな!」
「・・はい」
「コンテナはいくつ残っている?」
「・・・・無事なのは4個だけです、1個は破損、5個は・・・・
周回軌道SL-18を迷走中です・・・」
「・・・わかった、待機中のシャトル、フロンティアを救助に向か
わせる。それまで頑張ってくれ」
「・・・何時間かかります?」
「軌道計算を今始めた。そこに到着するのは・・・・7時間後だ」
「・・・・・・間に合いません」
「どれくらい持つ?」
「・・姿勢制御モーターを使用しても、軌道を維持できるのはせい
ぜい4時間です」
「救命カプセルは?」
「ライフボートのことですか」
「そうだ、あれなら一週間は大丈夫だろう」
「浄化作戦はどうなります」
「残りのカプセルを軌道に放出して、フロンティアに回収させる」
「駄目です、細菌の繁殖タイミングを逸してしまいます」
「・・・・・・・・・・」
「博士・・」
「なんだ?」
「このまま、アンドロメダを螺旋軌道で落下させようと思います」
「だめだ」
「それしか被害を食い止める方法がありません」
「・・・・・・・・」
「このままでは、人類は全滅です」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「科学者の誇りにかけて、わたしは逃げる訳にはまいりません」

長い沈黙が成層圏を支配した。

亜理沙を乗せた宇宙実験室「アンドロメダ」は、徐々にその高度
を下げつつあった。このまま大気圏に浅く進入し、姿勢制御モータ
ーの推力で軌道を修正しながら、浄化細菌を広範囲に展開する。半
数しかないので十分とは言えないが、少なくとも全滅だけは免れる
だろう。
覚悟を決めた亜理沙の心に、初めて寂しさがこみあげてきた。不
思議な事に恐怖は感じなかった。死ぬ事は少しも恐くない。ただ、
物音一つしない成層圏の棺のなかで、ただじっと死を待つのは耐え
られなかった。

[博士、応答してください]
(・・・・・・・・・)
[博士・・]
(今、)
[はい?・・・・]
(この回線をシークレットにした)
[・・・・・・・・]
(君とはなしがしたい)
[光栄です]
(君は・・・・)
(神を信じるかね?)
[・・・わたしは無宗教です]
(人間のつくった幼稚な偶像の事ではない)
[・・・・]
(この宇宙に存在する意志の事だ)
[・・・何かは、・・・あると思います]
(考えてもみたまえ、)
(ビッグバンの爆発の結果に)
[・・はい・]
(このような整然とした宇宙と、)
[・・・はい・・・]
(我々のような高等生命体が、)
(偶然に誕生したと思えるかね?)
[・・・いいえ!]
[ねぇ、博士、]
(・・なんだ?)
[わたしね、]
(うん)
[うんと小さな頃に、]
(うん)
[ひょっとしたら、]
[この宇宙は、]
[わたしひとりの夢じゃないかって、]
[考えて、]
(うん)
[すごく寂しくなって、]
(うん)
[・・・ねぇ、博士、]
(・・うん?)
[人を真剣に愛した事あります?]
(・・ありますよ・・・)
[わたしね、]
(うん)
[むかし、好きな人がいたんです]
[でも、]
[ついていく自信がなくって、]
[何も言わずに身を引いたんです]
(わたしにも・・・)
[はい]
(心底愛したひとがいる)
[・・・]
(そのひとは・・・)
[はい]
(あなたにとても似ていた・・・)
[・・・わたしなんか・・]
(ひかえめで、)
(物静かで、)
[・・・]
(芯に熱いものをしっかりと抱いていた)
[・・・・・・・・・・・]
(そして、)
[はい]
(そのひとは、わたしよりも研究を選んだ)
[・・・・・]
(君は、)
[はい]
(恋人はいるのかね?)
[はい]
(そうか・・・気の毒な事だな・・・)
[わたし・・・]
(うん?)
[彼よりも自分の研究に夢中で、]
[少し・・後悔してます]
(・・・・・)
[今度生まれ変わる事があったら、]
[もっと・・・・可愛い女に生まれたい・・]
(君は・・・十分、魅力的だよ・・・)
[ありがとうございます]
(・・あ、ちょっと待ってくれ!)
[はい?]
(敦賀の現場から報告が入った)
[聞かせてください]
(わかった)

スピーカーから報告が流れる。
「博士、融解した炉心に変化が始まりました!」
「良い変化かね?」
「はい、例の浄化細菌が予定通りの働きを始めたようです。冷却用
の海水による水蒸気の中からは、放射線が検出されなくなりました

「そうか・・・うまくいけば、上空の死の灰も食いつぶしてくれる
かもしれんな」
「中国大陸の地表で、放射線反応が徐々に上がっています」
「そうか・・・」
「北米大陸の一部に、外出禁止令がでてパニックが起きています」
「浄化作戦の事は報道されてないのか?」
「それが・・『ゼウスのしもべ』と名乗る集団が、とんでもない声
明文を発表して・・・」
「なんだ?」
「我々が、人体を改造する細菌をばらまこうとしていると言って非
難しています。そして、ひとりの英雄がそれを阻止したと・・・」
「・・・・・なんという愚かな・・・・」
博士は、吐き捨てるように言った。
「自分自身をも幸福にできんような連中にかぎって、ひとの人生に
口出しをする・・・・かれらの願いは、何の努力もせんと拝んでい
る自分達だけが・・自分達だけが幸福に暮らしていく事なんだ!」
「博士、彼らは被害者です」
「ああ、わかっている」
「使いこなす頭のない連中に、技術を提供した我々科学者の責任は、
否定できません」
「わかっているさ・・・」

なぜ、宗教屋どもは世界の破滅を願い、自分達だけが「選ばれた
民」になることばかり望むのだろう? 建て前がどうであれ、この
世の破滅を語るときの彼らの幸せそうな表情はどうだ! 神が、こ
の世界を壊す事を望んでいるとでもいうのだろうか? ならば、彼
らのいう神とはすなわち、我々にとって・・・

そこまで考えたとき、インターホンの声が現実に引き戻した。

「報告、謎の飛行体が衛星軌道に出現しました」
「コースは?」
「それが・・・考えられないところから、軌道SLー6に進入して、
障害物を避けながらどんどん軌道を上げていってます」
「・・今、軌道SL-18に入りました」
「信じられん動きだな」
「あ、さらに軌道を上げます・・わかった、アンドロメダに近づく
つもりだ!」
「なんだと、いったいどこの船だ?」
「わかりません。レーダー反応ではかなり大きい船です」

地上のやりとりをぼんやりと聞いていた亜理沙の目の前で、コン
ソールが宇宙船からの通信をキャッチした。
「・・・アンドロメダ・・オウトウセヨ・・アンドロメダ・・・・」
第3象限センサーに反応があった。相対速度秒速2キロ、カメラ
に映像が入った。真っ赤な、巨大な船だった。
「・・・・こちらASLー1028アンドロメダ、貴艦の艦名及び
所属を告げよ」
軌道航行法にのっとって訊ねる亜理沙に応えて、信じ難い声が返
ってきた。

「・・・・・了解・・・こちら宇宙開発事業団所属・・・JAー1
012・・・YAMATO・・・亜理沙、助けにきたよ!」



© Rakuten Group, Inc.